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『禅』 著 鈴木大拙  禅とは勉強するものではない。体験するもの。

こんにちわ、ボンです。


瞑想はやってますね。

マインドフルネス瞑想とか。

その関係で、禅の本がよく売れているようです。

 

すこし、調べたので覚書です。

禅って気になるんですよね。

もうすこしわかることあったら追記していこうかと思います。 

仏陀→龍樹→達摩→慧能→空海→近現代 みたいな流れを掴みたい。。

 

 

 

 

 

 



著 鈴木大拙
訳 工藤澄子
ちくま文庫
1965年2月25日「グリーンベルトシリーズ61」として筑摩書房より刊行

 


著者 鈴木大拙(すずき・だいせつ)


1870年(明治3年)、金沢市に生まれる。
国際的に著名な仏教哲学者。


はしがきに、

この書は、自分が過去四十五年間に公にした大小の英文の著作から、主として禅の本質と解せられるものを選出して邦訳し、一小冊としたものである。

 

英文を邦訳したのがこの本になります。

おもしろい。

 

 

禅の真髄


一番最初に「第一章 禅」に、禅の真髄として、

 

仏陀が成就した<悟り>を体験することにある。

 

禅は体験すること。

考えることではない。

 

 

禅の歴史

インドに起り、菩提達摩によって完成した形で中国にもたらされたと考えられている。
しかし、事実上の起源は、中国禅宗の第六祖慧能(慧能)にはじまる。

慧能は、当時心を鎮めるディヤーナ(禅定)の実行によって精神の集中をはかる偏った傾向が大勢を占めていたが、彼はこれに反対して、プラジュニャー(智慧)の覚 醒を強調した。


プラジュニャー(智慧)は、最高度の直観のこと。

 

ディヤーナ(禅定)の実行は、プラジュニャー(智慧)を導き出すかもしれないが、これを禅の目標とはかんがえるべきではない。

 


中国で生まれた禅の特徴。

 

抽象的な形而上学的思索に、まったく関心をもたぬという点である

 

具体的で生活に即している。

実践哲学化。中国らしい。

 

荘子の影響も大きいそう。

荘子は観念論的な事を、具体的にお話にしていたし。

そもそも、中国に仏教が入ってきたとき、仏典の翻訳に「老子」、「荘子」からも解釈に使われたわけだし。

 

 

悟りについて

 

仏陀は、存在の束縛から解放されることを願った。

 

この探究は、次のようないくつかの問いの形で著される。
「人生は生きるに値するものだろうか」
「人生の意義は何か。」
「われわれはいずれからきたり、またいずこに去るのであろうか」
等々。

 

これらの問いをすべて一つに要約して問う、「実在とは何か。」

 

問う者と問いとの分離から問題が起こっている 

 

・問いを解くとは、それと一つになることである

・解決はこの一体性の中からおのずと生まれてく

・その時、問いがみずからを解くのである

・論理的理解力では届かない。思惟の営みの限界の外にある。

 

分析するとはベクトルが違う。

そして二元論的考え方のが生滅し、「空」という状態になる。

 


「一切の条件制約からまったく自由」

 

 

ゆえに仏陀=目覚めた者。とか超越者とか言われる。

 

 

そういや、禅ってご飯作る。典座とか。畑で作物も作る。

同時に、仏教徒と言えば、托鉢でご飯もらってるイメージ。

 

しらべると、これは、インド仏教では農耕は禁じられていた。

耕すと土の中の生き物を殺すことになるから。

インドにはジャイナ教があり、路上の生物を踏まぬように気を付けるという戒律があるので、農耕禁止というのもインドの宗教らしいところ。

 

しかし、仏教がインドから中国に伝わった際に、中国には托鉢という習慣がない。

そのため、自給自足するしかなかった。

そこで、肉、魚などは食べないという方法をとった。

これが日本にも伝わっている。

 

ちなみに、インドでも肉魚を全く食べないというわけではなかったそうです。

精進料理という言葉にも、肉魚を食べないという意味はない。

 

いろいろおもしろい。

 

こういう動画もありました。

 


【落合陽一】禅・マインドフルネスを考える(過去回セレクション・期間限定ダイジェスト)

 

 

ちょこちょこ調べてみよう。

 

じゃまた。

 

 

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